先生・・・、あ、もういいです。

ある程度勉強が進んできた塾生が、質問しかけて、私と目が合うと、こんなことを言うようになります。

たぶん、私のオーラが彼らに解説を済ませたのでしょうが、彼らの脳内を勝手にスキャンしてみます。

たとえば、算数や数学で子どもたちに質問されていつも最初に聞き返すのは、

何がわからないの?

ということ。

  • この問題です。

この問題のどこがわからないの?

  • 全部です、あるいは、答えの出し方です、あるいは、答えです、などなど。

そうか、全部ね。じゃあ、

わからないところを声に出して読んで

というと、なぜか問題文の途中から読み出します。

あれっ、全部じゃないの?じゃあ、

わかったことを図に描いて説明して

というと、

  • 図が描けません。

何でもいいから、表でも数字だけでもいいから、書いて、といわれてしぶしぶ書き始めます。

勉強し始めて間もないころは、この段階で、

  • あ、わかった、

となります。

つまり、問題を十分に読んでいないのがつまずきの原因ということです。

これよりも少し勉強が進んでくると、線分図や表を描いて質問にくるようになります。

その段階では、

線分図や表を問題に合わせて描き分ける

方法を教えると、たいていは自力で答えまでたどり着くようになります。

中には、問題がわからないとじっと固まってしまう子どももいます。

何かかいてみなさい、と言っても

  • わからないからかけません。

そうじゃなくて、かかないからわからないんだよ、と言われて、嫌々かき始めます。

こういう子どもたちは、頭の中で答えが出てからでないと、何もかこうとしません。

しかし、そもそも

問題をイメージ(映像)化できないと解けない

のではないでしょうか。

手を動かせないこどもたちは、言葉や数字が単なる記号にとどまり、問われている具体的な内容が頭の中に浮かんでこないまま、公式を当てはめようとして行き詰っていることが多いような気がします。

質問したら、一連の作業が想起される

というのが、冒頭の言葉を導く理由である、というのが私の仮説です。

ものを考えるにも、一定の思考の型が必要だと思います。

だから、考え方を学ぶということが、学習するという行為の本質なのではないのでしょうか。