さよならテレビ

本日3月12日正午を持ってテレビとお別れすることにしました。

思えば子どものころからの長い付き合いでしたが、まさかその付き合いに終止符が打たれようとは考えてもいませんでした。

デジアナ変換サービス終了

今まで見続けていたテレビがアナログだったこともあり、自分の中では地デジ化が決まった時点でお別れするつもりはあったのですが、入居しているビルがケーブルテレビに加入しているため、デジアナ変換サービスによって視聴し続けていました。

もっとも、最近ではテレビをつけることも少なくなっていたので、さほどの喪失感も感じられません。

むしろ、番組を見て腹立たしい思いをすることがなくなる分、精神衛生上はよくなるかもしれません。

有無をいわさぬ地デジ化への疑問

使えるものを大量のゴミにしてしまう政策がまかり通ってしまうことに不信感をぬぐえないこともあって、本当は2011年7月にテレビとはおさらばするつもりだったのですが、思いがけずというか、残念ながらというか、デジアナ変換サービスによって付き合いが長引いてしまいました。

デジアナ変換で見続けられるのだったら、期限など切らずに、動作可能なアナログテレビがなくなるまでサービスを続けるというのならば、そろそろデジタルテレビにでもするか、という気分にもなれたのかも知れません。

いったい誰のための政策なのかよくわからないものが、なし崩し的に進められていく、という最近の傾向が気になってなりません。

もちろん自分の意見があるのならば手順を踏んで主張すべきだとは思いますが、一方で今のテレビというものが果たしてそこまでの努力をして守るべきものかといえば、大いに疑問があります。

役に立たないものはいずれ消え行く

歴史や伝統を守ることは大事ですがそれはなぜか。

それは今の自分につながるからこそ重要であって、その関係が切れているならば、少なくとも自分にとって守るべきものではなくなっているわけです。

かつては大切であったものでも、今まで存在したからということだけで、これからも存在できるという理由にはならないのです。

テレビを歴史や文化と同等に扱うのもどうかと思いますが、巨大化したまさにマスメディアは官僚化の道をたどるのでしょうか。

インターネット視聴者から受信料徴収?

NHKは昨年、放送法を改正した上でネット視聴者からも受信料を徴収する意向を示しています。

このようなお役所的あるいは政治屋的発想には、あきれてしまいます。

放送法の第一条の原則に立ち返り、果たしてその存在意義がこれからもあり続けるのかをふり返るべきではないでしょうか。

一  放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二  放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三  放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

さて、今日の話題は「受験生とその保護者へのアドバイス」にどうつながるか。

それらしくまとめると次のようなものでしょうか。

  • 自分にとって価値あるものと考えれば、それに向かって全力を尽くす。
  • みんなが価値を認めても自分が認めないものには、余計なエネルギーを使わない。
  • つまり、みんなが受験するから自分も受験するとか、偏差値が高いからいい学校だ、などという発想をしないで、自分の目で確かめ、自分の頭で考えて受験に臨みましょうということです。

というまとめ方が、果たしてまとめとして成立しているかも疑うべきかも知れません。